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Hamada Boiler
株式会社 ジャコム(日本燃焼技術株式会社)
Hamada Boiler Group Head Office
HUARONG BUILDING ROOM 1705
3880 JIANGNAN ROAD HANGZHOU CITY,
Hangzhou, Zhejiang Province, China
Tel: +86-571-87655979, 87655989
Fax: +86-571-87655969
浜田ボイラーの歴史 | 目次 |

後に円高のあおりを受けて工場を中国に移してからは、浜田ボイラーと改名しました。
上の写真は中国杭州(上海から200KM 有名な西湖付近)にある浜田ボイラー工廠です。

1976-1985年
この時期は中東から始まった前代未聞のオイルショックの為にそれまで安かった油が急騰し、供給不足の為一時期は油が配給制になった事もあり、工場経営者としては死活問題になりました。この時期に浜田ボイラーはフィリピンのマニラを中心に油に替わるエネルギーを木材、ココナッツシェルに求めて固形燃料ボイラーを急速に普及させました。油が手に入らず工場が止まった為、工員のストライキに毎日寝られない工場のオーナー達はこの時期、”何はともあれ木焚きボイラーを買って工場を稼動させること”となったわけです。この波はタイ国、マレーシアも同じでした。 1982年頃にはマニラの繊維染色工場の八割以上が浜田木焚きボイラーを使うようになり、毎日マニラ周辺から搬入される燃料用木材の量が千トンを越えたことで有名になりました。

1985-1990年
インドネシアに進出してシンガポール対岸の工業自由区であるバタム島にボイラー製造工場を建設しました。中国の工場と合わせて製造コストを下げて世界市場での競争力をつけるのが目的でした。インドネシアはこの時期スハルト大統領のもと、国家建設工業開発の真っ只中でボイラーの仕事は順調に伸びて行きました。またこの頃からインドネシアで豊富に採れる石炭に目をつけ、全国でエネルギー石炭化運動を始めたのです。流動床燃焼ボイラーの実績をつくっていったのもこの様な流れの中でした。

1991-1995年
流動床燃焼技術が認められ、インドネシアの国家エネルギー省の研究所へも納入し共同研究開発が今も続いています。この一環としてこの時期に一般産業廃棄物処理の研究を平行して実施しました。日本においても1990年代に入るとダイオキシン問題が深刻化し、今までの産業廃棄物処理方法が見直されはじめました。その後、1997 には法律が制定されて規制も厳しくなり、また、従来の焼却炉を禁止する事にまで発展していったのです。この時期に浜田ボイラー中国工場は南通市から上海の浦東新工業区へ移転します。

1996-2000年
真空管ヒートパイプ排熱回収ボイラーの製品化に成功したのもこの頃です。ヒートパイプ最高の熱回収効率を誇り現在コンピューターの内部部品等に多く使われていますが、ボイラーに使用したのは大変めずらしい事と思います。これによって大幅にサイズを小さく出来た上、コストダウンを実現しました。

2000年-2003年
2000年にインドネシアの国内石油価格が3〜4倍に高騰しました。それまでにあった政府の補助金政策を取りやめたからです。これが国内産業に与える影響は想像を越えるもので、競争力の弱い産業は倒産に追いやられる状況です。日系企業もTIFICO,TORAY,KANEBOと相次いで石炭化を実施し、浜田ボイラーが納入されました。同時にもっとコンパクトな煙管ボイラーの煙道の中にチェーンストーカーを入れた内燃式チェーンストーカーボイラーを新製品として2003年から売り出し、大成功を修めました。COALMAC BOILERと呼ばれるこの型は今後、従来の流動床ボイラーと並んで、特に小型ボイラー5〜16トンの範囲の石炭ボイラーの主力製品となる見込みです。

2003-2006年 現在に至る:
工場のプロセス蒸気は既に石炭化した日系企業のTIFICO,TORAY(ITS)が相次いで石炭火力発電に踏み切りました。両方とも総発電量30MWで75トンの循環流動層石炭ボイラーを2基使用しております。2005年には世界の石油価格が一時は1バレル75米ドルまで急騰し、1970年代のオイルショックの再来となりました。浜田ボイラーは今こそ活躍の時と見てタイ国、フィリッピンにいち早く支店を再開して現在に至っております。

 
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